宝塚歌劇100周年のあゆみ

主な出来事
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待望の宝塚大劇場再開
4月22日、ようやく宝塚大劇場は再開された。待望の春であった。大劇場が閉鎖されていた期間は実際には2年2ヶ月であったが、それは、ファンにとっても、宝塚歌劇団関係者にとっても、長い長い空白の期間であった。再開の雪組公演は堀正旗作の歌劇『カルメン』と、水田茂作のレビュー『春のをどり・愛の夢』であった。
東京公演の再開は大劇場再開の翌年、4月1日であった。東京宝塚劇場が接収されたままだったので、有楽町の日本劇場で雪組が公演した。演目は西川鯉三郎振付の舞踊集『宝塚おどり絵巻』と内海重典作のレビュー『ファイン・ロマンス』であった。
さくらまつりに招かれ第1回ハワイ公演
宝塚歌劇団が再び国際的な活動を始めるのは昭和29年(1954)からであった。2月に新珠三千代がブラジル400年映画祭に参加するため同国へ出発、8月には八千草薫と寿美花代がベニス映画祭に派遣された。また、10月には、東郷晴子、四條秀子、淀かほるら15人の生徒がローマに向かい、同地にとどまっていた八千草、寿美と合流し、日伊合作映画「蝶々夫人」の撮影に参加した。4月には理事の梅田健一がハワイ公演の打ち合わせのために現地へ出かけた。ホノルルの日系人青年商工会議所が毎年4月に開いている「ハワイさくらまつり」に招かれるもので、30年(1955)3月25日に第1回ハワイ公演の一行がハワイに向けて出発した。日本物中心の公演であったが、現地の人たちの絶賛をあびた。帰国は同年4月30日であった。
惜しまれて小林一三翁逝く
宝塚歌劇団の創設者小林一三は、1月25日午後11時45分、急性心臓性喘息のため大阪府池田市の自邸で急逝した。享年84歳であった。同日、正三位勲一等瑞宝章を贈られた。
1月31日、故人の遺志により宝塚大劇場に各界の名士三千数百人の参列を仰ぎ、宝塚音楽学校葬として葬儀は営まれた。3月8日には東京宝塚劇場において追悼式が音楽葬として営まれた。
宝塚の新風を起こした『華麗なる千拍子』
昭和35年(1960)と36年(1961)は宝塚歌劇団が連続して芸術祭賞(のち芸術祭大賞)を受賞するという栄に浴した。前者は35年(1960)10月の星組公演グランド・ショウ『華麗なる千拍子』の、後者は36年(1961)11月の雪組公演・日本民族舞踊シリーズ第4集『火の島』の成果によるものであった。
 高木史朗が作・演出を担当した『華麗なる千拍子』の大劇場初演は、8月であった。高木の「いまや時代の動きやテンポは二拍子や三拍子ではなく千拍子で数えなければならない」という持論を舞台化したもので、文字どおりテンポに富んだ素晴らしい舞台となった。幕開きからフィナーレまで題名そのままに華麗な歌と踊りの連続。
翌年は「千拍子」に明け「千拍子」に暮れた年であった。1月の大劇場は受賞記念の再演で、2月は明石照子の雪組で続演。東京でも星組と雪組で2ヶ月続演した。また、12月には梅田コマで1ヶ月上演。このほか京都と名古屋でも上演した。結局、初演から通算すると上演期間は7ヵ月半、観客80万人を突破したことになる。(因みに、平成14年11月再演された際には100万人の動員となった)
讃歌高らかに―――宝塚歌劇50周年を祝う
この年は東京オリンピック開催の年であり、東海道新幹線の東京~新大阪間が開通した年でもあったが、宝塚歌劇団にとっては50周年が最大の出来事になった。宝塚大劇場で開かれた記念式典では、小林米三阪急電鉄社長(この時代の正式社名は京阪神急行電鉄)は「父小林一三が提唱した国民劇創成に向けて、さらに努力したい」と挨拶した。宝塚歌劇団と宝塚音楽学校の全生徒は紋付袴の正装に威儀を正して舞台いっぱいに整列し、「宝塚讃歌」を合唱した。全生徒による儀礼の大斉唱は、このとき始まったものである。ちなみに「宝塚、わが宝塚、清く正しく美しく…」で始まる「宝塚歌劇団団歌」が発表されたのは5月21日。大劇場で開かれた「『歌劇』『宝塚グラフ』愛読者大会」の席上であった。
日本万国博覧会の年、宝塚もにぎわう
3月14日、大阪府の千里丘陵で日本万国博覧会(EXPO’70)の開会式が挙行された。「人類の進歩と調和」をテーマに史上最多の77ヵ国が参加するアジア初の国際博であった。3月15日から9月13日までの開催期間中、目標の5000万人を大幅に上回る6422万人の入場でにぎわうことになる。
この間、大劇場の3月・4月公演ではグランド・レビュー『タカラヅカEXPO’70』を上演した。第1部は菅沼潤・横澤英雄演出の『四季の踊り絵巻』で、第2部は鴨川清作の『ハロー!タカラヅカ』であった。3月公演の初日は万国博の会期の初日にあわせて15日とした。第2部の『ハロー!タカラヅカ』は5月まで続演した。
万国博の人気に合わせるように宝塚大劇場の入場者も増え続け、ついには満員札止めになる日が続出した。7月下旬から8月末までは、連日、立見席まで売り切れになるという大劇場開設以来の盛況となったのである。
万国博が宝塚に与えた影響が、もう一つあった。それは当時の理事長荒木秀雄が決断した上演時間の短縮という施策であった。万国博帰りのお客様の多くは、初めて宝塚を観劇される方々。そんな人たちに退屈な思いをさせないよう時間短縮に踏み切ったのであった。2本立てで実上演時間2時間30分、幕間30分という現在の形は、このとき確立した。上演時間は短くなっても内容は更に充実。その最初の好例になったのが『タカラヅカEXPO’70』であった。
『ベルサイユのばら』爆発的ヒット
昭和49年(1974)は宝塚歌劇60周年にあたる年であった。5月11日、大劇場で記念式典をおこない、同月14日には阪急西宮球場で大運動会が開かれた。4月と5月は白井鐵造の大作『虞美人』の再々演。そして、その秋、日本の芸能史上にかつてないブームを巻き起こすことになる『ベルサイユのばら』が登場する。
活劇あり悲恋物語ありの「ベルサイユのばら」は宝塚の舞台に大輪の花を咲かせることになった。登場人物は宝塚でなければ演じられない設定のものであり、とくに男装の麗人オスカルは宝塚の男役を絵に描いたような存在であった。
観客の反応は激しく熱かった。未曾有の大入りとなったのである。8月29日初日の大劇場月組公演は90%の入りであったが、明らかに、いつものファンとは違う客層の人たちが客席を埋めていく。全国から押し寄せた親子連れであった。11月東京公演も90%であったが、真帆志ぶきのサヨナラ公演と重なって、後半は連日満員となった。また、この作品で注目されたのは、プログラムの異常な売れ行きであった。ファンの人たちは、一人で何部も買い求め、ついには販売部数が観客数を上回るという異変も起こった。

宝塚歌劇 豆知識

宝塚歌劇に関する豆知識をご紹介いたします。各項目をクリックすると解説が表示されます。
  • 男役と女役
  • 組の歴史
  • 緑の袴
  • ラインダンス
  • 清く正しく美しく
  • 大階段と銀橋
  • シャンシャン
  • 新人公演
  • さよなら公演