これがわかれば、もっと楽しい。
宝塚用語辞典
宝塚歌劇の世界には宝塚用語が存在。舞台に関するもの、スターに関するものなどもりだくさん。この用語がわかれば、あなたも宝塚ファンとして一人前。気になる用語から調べてみてください。
あ行
愛称
宝塚歌劇団の生徒(出演者)には、芸名のほかに愛称があり、生徒同士やファンの間では親しみをこめて愛称で呼ぶことも多い。
衣装
通常は、歌劇団の専属デザイナーと宝塚舞台の縫製スタッフによって製作。照明に映える色は、一番大切なポイント。舞台の立つ位置も計算して考えられる。踊りやすくする為に裏地にシルクを使って滑りやすくしたり、早変わりしやすく、ボタンは見せかけで実際はマジックテープをたくさん使用したりと、舞台衣装ならではの工夫がいっぱい。
入り・出待ち
入り待ちとは、楽屋入りするスターを一目見る為に開演前に楽屋口で待つこと。出待ちとは、終演後、スターが楽屋から出てくるのを待つこと。
エトワール
オペラでいうプリマドンナにあたる歌手で、いわゆる「歌姫」を指す。
大階段(おおかいだん)
タカラヅカの象徴とも言える舞台装置。宝塚の舞台にはじめて階段が取り付けられたのは、1927年9月の日本最初のレビュー「モン・パリ」で、この時は16段。現在は、宝塚大劇場、東京宝塚劇場ともに26段。
オーケストラ
1914年の宝塚少女歌劇初演時よりオーケストラ伴奏を使用。宝塚大劇場と東京宝塚劇場には舞台前面と銀橋(エプロンステージ)の間にオーケストラボックスがある。
か行
海外公演
初めての海外公演は1938~39年の第一回ヨーロッパ公演(ドイツ、イタリア、ポーランド)。その後、2015年の台湾公演まで、合計26回17カ国、120都市以上で開催されている。
歌手
昭和初期には声楽専科や各組に所属する声楽科の生徒達が活躍。昭和中期以降は主演スターが中心的に歌い踊るようになったが、フィナーレの大階段で歌うソロ歌手などは宝塚に欠かせない存在。
銀橋(ぎんきょう)
宝塚大劇場、東京宝塚劇場の舞台前面、オーケストラと客席の間にある通路のような舞台(エプロンステージ)のこと。フランス語のpont d argentの直訳で1931年「ローズ・パリ」で白井鐡造が試用したのが始まりといわれる。
組長
花・月・雪・星・宙の各組に組長、副組長が任命されている。その組の最上級生で、組の生徒達(組子)の指導者として公私の面で面倒をみている。
芸名
宝塚音楽学校を卒業して歌劇団に入団する際に芸名がつけられる。現在は、卒業生を含めて同じ名前が重ならないように決定される。
研究科
宝塚音楽学校を卒業して歌劇団に入団した時に研究科1年に編入され、翌年は研究科2年生となる。これを略して「研1」「研2」…と呼ぶ。
口上
初舞台生のお披露目や、新年最初の公演時等の改まった行事に、皆様へご挨拶させて頂くこと。
さ行
サヨナラショー
トップスターの退団にあたって、その最後の宝塚大劇場公演と東京宝塚劇場公演の千秋楽(とその前日)には、そのスターの思い出の名場面などを綴る「サヨナラショー」が追加上演される。始まったのは1963年の明石照子から。近年は、千秋楽に退団者が紋付袴姿でお客様にお別れのあいさつをするのが恒例となった。
シャンシャン
フィナーレで出演者全員が手にする小道具のこと。
新人公演
本公演の演目を、本役に代わって新人によって上演する公演。宝塚大劇場、東京宝塚劇場では毎公演ほぼ1回行なわれる。初めて開催されたのは1958年の大劇場雪組公演「花の饗宴(うたげ)」。現在のように原則として研究科7年以下の下級生だけで上演されるようになったのは昭和50年代より。
すみれの花
1930年8月に上演された「パリゼット」の主題歌のひとつ「すみれの花咲く頃」はウィーンで作られた曲でパリに伝わり、「リラの花咲く頃」という題名で歌われていた。いまでは、すみれの花はタカラヅカのシンボルとなっている。
すみれ募金
5月に宝塚音楽学校生徒が、宝塚大劇場にご来場のお客様に募金のご協力を呼びかけ、ご協力のお礼として花(ビオラ)の種をお渡しするイベント。1964年から2010年まではすみれの造花を有料で配布していた。
生徒
宝塚の舞台に立つためには、必ず宝塚音楽学校を卒業していなければならない。音楽学校卒業後、宝塚歌劇団に入団してからも、在団中はすべて「生徒」と呼ばれる。
せり上げ
役者や大道具を「せり」から舞台上に押し上げて出すこと。
専科
花・月・雪・星・宙のどの組に属さず、必要に応じて各組の公演に特別出演するスペシャリスト集団。各組の舞台に新しい魅力を吹き込みつつ、後輩の育成にも一役かっている。
専科
た行
タカラジェンヌ
戦前のレビュー黄金時代を築いた白井鐡造が、小粋でおしゃれなパリ娘というように、美しくてエレガントな宝塚歌劇の生徒達につけた愛称。1937年には「たからじぇんぬ」と題するレビューを作っている。
宝塚音楽学校
宝塚歌劇の出演者を養成する学校で、宝塚の舞台に立つためにはこの学校を卒業しなければならない。予科、本科の2年制。受験の機会は中学校卒業~高校卒業までの4回。入学定員は40名。
宝塚音楽学校
タカラヅカ・スカイ・ステージ
2002年7月に開局された宝塚歌劇専門の衛星放送チャンネル。舞台放送を中心に、多彩なオリジナル番組で宝塚歌劇の最新情報やスターの素顔から舞台裏まで1日中宝塚歌劇を楽しめる。
タカラヅカ・スカイ・ステージ
TAKARAZUKA1000days劇場
東京宝塚劇場の建替え期間中の仮設劇場。1998年5月30日~2000年12月13日まで約1200公演を行なった。なお、1000days劇場公演より、首都圏における年8回の通年公演を開始した。
宝塚大劇場
旧劇場は1924年竣工。1935年の火災による内部焼失や戦争中の公演中止、海軍航空隊・進駐軍の接収などもあったが、1992年11月24日で68年5ヶ月の歴史を閉じた。 1993年1月1日に新劇場オープン。客席は2層で合計2527席。 2005年に1階席最前列(中央部)を23席増設。 現在の客席数は合計2,550席。
宝塚大劇場
宝塚友の会
1934年12月に宝塚歌劇団発行の雑誌の普及を目的として作られた会。2001年1月よりリニューアルし、会員先行販売などの特典がある。
宝塚友の会
宝塚バウホール
宝塚大劇場に隣接して1978年に開場した客席数約500の小劇場。バウ(BOW)は船のへさきを意味し、新しい時代のさきがけとなるようにとの願いが込められている。
30名程度の小編成で公演やコンサートなどを行なっており、この劇場から新たなスターやスタッフが出現している。
宝塚バウホール
宝塚ファミリーランド
阪急電鉄経営の遊園地で創業は1911年5月1日と、宝塚歌劇の歴史より古い。最初は浴場が中心で「宝塚新温泉」という名で親しまれていた。1960年3月20日に「宝塚ファミリーランド」と改称。1993年からは歌劇のチケットで入園できるようになった。2003年4月7日をもって、営業を終了。
東京宝塚劇場
旧劇場は1934年1月開場、戦時中の1944年3月に閉鎖。戦後は連合軍に接収され「アーニー・パイル劇場」と呼ばれたが、1955年に接収解除され公演再開。 1997年までは年7ヶ月7公演を行なっていた。1997年12月に建替えのため閉場。 2001年1月1日、2069席の新・東京宝塚劇場として再オープン。
東京宝塚劇場
緞帳
宝塚大劇場には三枚の緞帳を吊ることが出来るようになっており、それぞれ一番緞帳、二番緞帳、三番緞帳と呼ばれている。また、東京宝塚劇場は二枚、宝塚バウホールは一枚。
な行・は行・ま行・ら行
な行
奈落
舞台用語では舞台上や花道の下や地下、まわり舞台やせり出しの装置のある場所を指す。
は行
初舞台
宝塚大劇場の春の公演で披露口上とラインダンスで初舞台を踏むのが恒例。
花のみち
阪急宝塚駅前から大劇場方向に延びる一段高くなった遊歩道。
かつては武庫川の堤防で、桜をはじめ四季折々の風情がある。
花道
昭和の初年までは旧・宝塚大劇場に歌舞伎同様に舞台から客席の中へ突き出た「花道」があった。銀橋が出現した頃から取り外され、舞台の左右にある通路のようなところを「花道」と呼ぶようになった。
羽根
タカラヅカには欠かせない衣装飾り。トップスターたちが背負う羽根はオーストリッチなどの豪華な羽根素材で出来ており、重いものでは数十キロに及ぶものもある。
フィナーレ
公演の最後にラインダンスや出演者全員のパレードにより華やかなフィナーレが繰り広げられる。鈴などを振りながら出演者たちが大階段を下りてくる形式を初めて取り入れたのは1951年の「アラビアンナイト」といわれている。
ま行
緑のハカマ
黒紋付に緑ハカマが宝塚歌劇団と宝塚音楽学校生徒の礼装。
ら行
ラインダンス
一列になって踊るダンスのことで、「ロケット」とも言う。1927年日本初のレビュー「モン・パリ」で初めて登場。「ラインダンス」は和製英語で、「ロケット」はニューヨーク・ラジオシティ・ミュージックホールのダンシングチームに付けられた愛称と言われる。
レビュー記念日
1927年9月1日に日本ではじめてのレビュー「モン・パリ -吾が巴里よ-」が上演され、宝塚歌劇はレビュー時代へ入った。それから60年目の1987年「モン・パリ」誕生60年の催しを行い、その翌年より9月1日には毎年レビュー記念日として、宝塚大劇場で本公演に引き続いてミニ・ショーを行った。2007年での開催をもって本イベントは終了。