1914-1945
1946-1974
1975-1993
1994-2003
2004-2013
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宝塚少女歌劇第1回公演
4月1日に幕をあけた第1回公演は、宝塚新温泉で開催された大阪毎日新聞社主催「婚禮博覧会」の余興として、パラダイス劇場で上演された。5月30日までの期間中、入園者に無料で公開されたのであった。いきなりの2ヶ月長期公演であったが、客の入りはよかった。失敗なら夏には元の水泳場に戻そうと決めていた関係者一同は、この成功を基盤として引き続き年4回の公演の実施を決めた。
宝塚音楽歌劇学校と公会堂劇場
大正4年(1915)に兵庫県知事を通じて文部省に出願していた「宝塚音楽歌劇学校」の開校が認められることになった。文部省私立学校令により、大正7年(1918)12月28日付で認可されたのであった。翌大正8年(1919)1月6日、宝塚少女歌劇養成会は解散し、新しく宝塚音楽歌劇学校が設立され宝塚音楽歌劇学校生徒と卒業生で、宝塚少女歌劇団が組織された。音楽と歌劇に関する技芸を実用的な目的で身につけるための教育組織で、修業1年の予科と同じく修業1年の本科、そして、本科終了後に技芸を専攻する研究科がある。研究科の修業年限は限定されなかった。
こうして宝塚歌劇は次第に名声を高め、全国から観劇のために宝塚を訪れる人が多くなっていった。パラダイス劇場の観客は急増し、満員札止めの日が続いた。そこで、ちょうど廃止されることになった箕面動物園の公会堂を移築して新歌劇場とすることになった。3月17日、現在の大劇場の位置に箕面公会堂を移築する工事が完了し、3月20日の春期公演から使用を開始した。この新劇場は通称「公会堂劇場」と呼ばれた。定員はパラダイス劇場の3倍。これまで、新温泉への入場者に無料で公開されていた宝塚歌劇であったが、この新劇場では客席左右の一段高い位置に桟敷席を設け、予約代20銭とした。
4000人収容の宝塚大劇場が完成
7月17日、賓客数千人を招いて宝塚大劇場新築披露式がおこなわれた。翌18日には職員と生徒の家族を招待。いよいよ7月19日から花組・月組合同による柿落とし公演が開かれた。演目は5本立てで楳茂都陸平作のおとぎ歌劇『カチカチ山』は回り舞台の最速回転を利用した演出、久松一聲作『身替音頭』では奥深くから花道にかけてダンサーを並べて舞台の大きさを表現し、岸田辰彌作の喜歌劇『小さき夢』ではドンデン返しを効果的に使うなど、話題を提供した。白亜5階建て大劇場の休憩室廊下には真紅の絨毯が敷かれ満席の観客を迎えた。
生徒数は200人を超え、大劇場の完成を前にした同年7月1日、雪組が発足した。翌年1月1日から始まる大劇場での12ヶ月常時公演を、花・月・雪の3組が毎月交代して継続することになった。いわば理想的な体制が確立されたのである。この常時公演は文字どおり年中無休の公演で、原則として毎月1日が初日で月末が千秋楽。そのため舞台稽古は夜間に行われる。公演のない日は年末の3日間だけ。このような年中無休公演は、大正天皇がご病気であった大正15年を除いて昭和14年まで16年間も続いた。
日本最初のレビュー『モン・パリ』上演
レビュー『モン・パリ<吾が巴里よ>』の幕が上がったのは、9月であった。
内容は、神戸港を出帆した主人公が中国・インド・エジプトを経てパリに着くまでの旅を縦糸に、さまざまな踊りやロマンスが織り込まれるシンプルなもの。しかし、なによりも日本最初のレビュー上演ということで話題となった。音楽を主役に、歌、ダンス、ドラマなど多様な要素が絡み合うテンポの速い音楽劇で、1時間30分の上演中1度も幕が降りないという構成であった。
1時間30分16場の舞台はスタッフや出演者に過酷な緊張を強いただけでなく、制作費も大きくふくらむことになった。しかし、小林一三の「よいものならやれ」という決断で一挙に上演が決まった。スピーディーな場面転換、新感覚のシャンソン、モダンな衣装、豪華な背景。すべて日本で初めてのものばかり。作岸田辰彌、振付白井鐵造。9月の初演は花組で奈良美也子主演、10月は雪組で雪野富士子主演、翌年6月は月組で門田芦子主演と続き、宝塚として初の長期公演(ロングラン)の記録をつくった。
『パリゼット』で黄金時代へ
レビュー時代をひらいた『モン・パリ』に続いて、翌昭和3年(1928)には同じく岸田辰彌の新作レビュー『イタリヤーナ』と『ハレムの宮殿』が上演された。『ハレムの宮殿』では舞台に大水槽を据えて水中レビューを見せた。同4年(1929)には、これも岸田作品の『シンデレラ』も上演されたが、これらをしのぐ傑作レビューと評されたのが5年(1930)8月に初演された白井鐵造作『パリゼット』であった。
「パリゼット」は「かわいいパリ娘」という意味。二人の日本人青年がパリのまちを見てまわるという内容で、初演では門田芦子と巽寿美子が主演した。また、日本舞踊の名手である月組組長天津乙女も加わってのタップダンスが人気を呼んだ。タップの舞台登場は日本初であった。パリみやげのダチョウの羽根やダイヤモンドの首飾りも目をひいたが、とくに人気を呼んだのは音楽であった。なかでも「すみれの花咲く頃」「おお宝塚」という2つの主題歌は、ともに外国曲ではあったが白井の歌詞がついてファンの胸を打つ名曲となり、やがて宝塚を象徴する歌となった。『パリゼット』はその年8月・9月・10月と続演し、11月に1週間、東京の歌舞伎座で公演。昭和7年(1932)にも6月・7月と宝塚で、翌8年(1933)10月には新橋演舞場で再演された。
東京宝塚劇場『花詩集』でオープン
1月、東京日比谷に待望の「東京宝塚劇場」が誕生した。宝塚少女歌劇が初公演してから満20年目の壮挙であった。この記念すべき公演で演じられた白井鐵造作のレビュー『花詩集』は、昭和8年8月に宝塚大劇場での「創立20周年記念公演」で初演されたものである。マロニエ、スズラン、バラ、カーネーション、野菊、スミレ、ケシなどの花をテーマとした各場面を次々に綴っていくもの。
東京公演は9ヶ月おこなわれた。開場前と比べると画期的な増加ぶりであった。この年、本拠地の宝塚でも大劇場と中劇場あわせて20公演がおこなわれ、上演演目数は75本に達した。黄金時代の始まりであった。
ドイツとイタリアで初の海外公演
歌劇団初めての海外公演は、昭和13年(1938)から14年にかけてのドイツ・イタリア公演であった。国際的に孤立しつつあった日本・ドイツ・イタリアの3国は、12年(1937)11月に条約を結んで友好関係を深めていた。そこで歌劇団も「訪独伊芸術使節団」として出発することになった。10月2日、一行を乗せた日本郵船の客船靖国丸は神戸港を出帆、11月4日にイタリアのナポリ港に着いた。
ドイツのベルリン、ライプチヒ、デュッセルドルフ、ミュンヘンなど、ポーランドのワルシャワ、イタリアのナポリ、ベニス、トリノ、ミラノ、ローマなど、11月15日初日をベルリンで迎えたあと3カ国25劇場での公演が始まった。主な演目は『三番叟』『紅葉狩』『棒しばり』『五人道成寺』『豊年踊』など。大好評のうちに初の海外公演を終えた一行は、昭和14年(1939)3月4日伏見丸で神戸港に帰った。
米国との平和交流を願い、アメリカ公演のメンバーがこの後すぐに神戸港を発っている。4月4日、日本郵船の鎌倉丸で神戸港を出発、ホノルル、サンフランシスコ、サクラメント、ロサンゼルス、ポートランドなどで公演し、同年7月4日に氷川丸で神戸港に帰った。歌劇団の初の海外公演については、計画が最初に持ちあがったのは昭和2年(1927)であったが、実現までに10年以上かかることになった。両公演とも日本情緒を全面に押し出したものを上演し、その優美な踊りは観客を魅了し、国際親善に大いに貢献した。
決戦非常措置で宝塚大劇場閉鎖
戦況は次第に厳しくなっていた。19年(1944)、東京をはじめ本土への空襲が始まった。神風特攻隊の初出撃は、この年の10月25日であった。学徒出陣も前年から続いており、宝塚ファンであった学生が戦地に向かうにあたって大劇場で最期の観劇を楽しむという哀しい光景も見られた。
国民を戦いに集中させるため総動員体制を徹底させようという決戦非常措置要綱の施行は19年(1944)3月1日。男女学徒の動員徹底、高級劇場などの一時閉鎖、旅行の制限、官庁休日の削減などが定められた。さっそく全国の19劇場が向こう1年間閉鎖されることになり、そのなかに宝塚大劇場と東京宝塚劇場も含まれていた。東京宝塚劇場では3月2日初日で花組公演が予定されていたが、やむなく舞台稽古を中止、公演は打切となった。
一方、大劇場では2月26日に初日をあけたばかりの春日野八千代主演の雪組公演を上演していた。3月1日に閉鎖の命令を受け、2日はたまたま節電休演日。3月4日限りで公演を打ち切ると発表したところ、3日には驚いたファンが劇場前に殺到した。
5月31日には宝塚大劇場と周辺の施設が海軍に接収され、宝塚海軍航空隊が駐屯することになった。花のみちに沿って航空隊と外部をへだてる板塀がつくられ、大劇場の2階と3階の客席は仕切られて海軍飛行予科練習生(予科練)の階段教室となった。そして、大劇場をはじめ周辺の建物には空襲を避けるために迷彩塗装が施された。この接収にともなって歌劇団や音楽舞踊学校の事務所は宝塚文芸図書館(以前の宝塚歌劇記念館)や武庫川対岸の元ダンスホールに移転した。そして、宝塚の生徒たちは紺色の戦時服に身を固め、10人から20人の班に分かれて慰問の旅に出たのであった。
決戦非常措置で宝塚大劇場閉鎖
大劇場と東京宝塚劇場の接収は続いていた。その代わりというのか、宝塚映画劇場(元の宝塚キネマ館)での公演が許可され、5月5日から細々と公演を始めた。しかし、警戒警報や空襲警報が出るたびに休演するなど、充分なことはできないまま8月15日の終戦を迎えることになった。
宝塚映画劇場での公演は終戦後の12月の火災焼失まで続き、10月と11月には大阪の北野劇場で各組合同公演も開かれたが、宝塚大劇場は引き続き連合軍に接収されることになった。戦時中は陸軍の風船爆弾の製造のために使用されていた東京宝塚劇場は9月に返還されたのだが、翌年2月には改めて連合軍に接収され、アーニーパイル劇場と呼ばれる進駐軍将兵慰問用の劇場になった。
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