陰陽師と玉藻前伝説

陰陽師・安倍泰成と妖狐・玉藻前の対決は、玉藻前伝説という古くから伝わる物語に描かれています。
陰陽師とは一体何をする人物だったのでしょうか。
宙組公演 —本朝妖綺譚—『白鷺の城』の世界を更にお楽しみいただくために、陰陽師について、そして玉藻前伝説で語られている物語の内容についてご紹介します。   

陰陽師とは

  

写真   晴明神社(京都)

陰陽師の命令で動く霊的存在の式神や、人間の形に紙を切り取ったヒトガタを使った呪術で鬼と対決する、そんなイメージの強い陰陽師ですが、本来の陰陽師は、飛鳥時代につくられた官僚組織のひとつ、陰陽寮に所属する官職でした。
陰陽寮では、古代中国の陰陽五行説から発展した陰陽道を使って、国家に関わる占いや、暦の作成、時間の測定、天文占星術などを行いました。当時、天体の現象は「天」が地上の支配者に裁断を下す前兆であり、支配者の行為も天体に影響すると考えられていたことから、陰陽師は天と地上の天皇をつなぐ重要な役割を担っていたといえます。   

また、陰陽師は現在の節分のルーツである「追儺(ついな)」という鬼を追い払う儀礼にも携わっていました。鬼は陰陽のバランスが崩れる暦の変わり目の頃に発生するとして、旧暦十二月最終日の夜にその儀礼は行われます。陰陽の専門家たる陰陽師が祭文を読みあげ、季節・自然界・冥界の神々を召喚し、鬼を追う宮中の人びとの守護を祈るのです。   

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このように陰陽師は呪術や祭祀も司りました。平安時代中期には貴族文化の繁栄とともに、呪術や祭祀、日時や方角の吉凶判断を陰陽師に依頼する貴族が増え、陰陽師の名は人びとの間に広まっていきます。

その一人で実在した陰陽師として有名な安倍晴明は、藤原道長や清少納言、紫式部ら平安貴族文化を代表する人びとと同じ時代に活躍しました。
そして、後に玉藻前伝説に登場することになる安倍泰成も、安倍晴明の直系子孫の陰陽師であり、れっきとした実在の人物です。
そして玉藻前伝説のなかでは、安倍泰成は陰陽師の術で妖狐の正体を見破る唯一の存在として活躍します。   

玉藻前の伝説

  

画像 安倍泰成と玉藻前(京都大学附属図書館所蔵「たま藻のまへ」)

妖狐の伝承は全国に数多く残されていますが、その中でも後に歌舞伎や人形浄瑠璃にもなった玉藻前伝説。古くは南北朝時代にすでに流布していたと考えられています。
まずは伝説の内容をご紹介しましょう。   

画像   逃げる妖狐(京都大学附属図書館所蔵「たま藻のまへ」部分)

話の舞台は、後に武士国家へと変貌を遂げていく前の、平安時代末期の鳥羽上皇の時代。
ある日、鳥羽上皇の御所に一人の美女が現れます。美しいだけではなく無類の博識を示す女は、やがて上皇の寵愛を受け、玉藻前と呼ばれるように。ところが、次第に上皇が悪霊によって健康を害してしまいます。その悪霊の正体を見破った人物こそが、陰陽師・安部泰成だったのです。
「上皇の病は玉藻前の仕業。その正体は妖狐である!」と訴える安部泰成でしたが、鳥羽上皇は「上皇に万一のことがあれば自らも死を共にします」と誓いを告げた心優しい玉藻前が妖狐であると、すぐには信じられません。
かくなる上は、と安倍泰成が悪霊祓いの儀礼を執り行うと、玉藻前の姿は忽然と消えてしまいます。逃げた妖狐を討ち取るよう命じられた東国の武士たちは、苦心の末に狐を退治。その腹中からは仏舎利(釈迦の遺骨)が出たとも、遺体は宇治平等院の宝蔵に納められたともいわれます。   

江戸時代には玉藻前伝説をもとにした小説が作られ、玉藻前の物語は一躍有名になります。玉藻前は、従来の日本の古典文学の世界で人気の献身的な女性像とは異なり、王権に仇なす存在でありながら、恐ろしくも妖艶な美しさで人びとを魅了しました。
そして陰陽師・安倍泰成と美しい妖狐の対決は、スリリングな展開と幻妖な世界観で、今も人びとを惹きつけています。   




伝説上の対決に千年に亘り時を駆けるという独自のエッセンスを加え、演出家・大野拓史が壮大なスケールで描く日本物レヴュー『白鷺の城』。宙組を率いる真風涼帆が凛々しい陰陽師となり、妖しく雅やかな世界へ皆様をお連れします。どうぞご期待ください。





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