『夢介千両みやげ』の魅力
原作「夢介千両みやげ」
今回、雪組が、新たにお届けするのは、人気作家・山手樹一郎氏の小説の舞台化『夢介千両みやげ』。読んで楽しい、観て楽しい、作品の魅力に迫ります。
ここでは、お髭と眼鏡がトレードマークのオリジナルキャラクターがご案内いたします。
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原作「夢介千両みやげ」はどんなお話?
時代小説「夢介千両みやげ」の連載が始まったのは、戦後間もない1948(昭和23)年。当時、チャンバラや仇討ちなどを描いた時代小説は、軍国主義的だという理由でGHQ(連合国総司令部)により規制される中、刀を持たない主人公・夢介の、明るく楽しい物語は生まれました。
しかし、作者の山手樹一郎氏は時代に迎合していたわけではありません。元来、彼は、人を斬らない小説を書くことを信条としていたのです。
物語は、小田原入生田村の庄屋の息子・夢介が、父からの言い付けにより、千両を使っての道楽修行に向かう江戸への道中から始まります。見るからにお人好しのこの青年に、女スリのお銀が早速狙いを定めますが、夢介の底抜けの優しさや大らかな人柄に、お銀はすっかり骨抜きにされてしまうのでした。
江戸での生活を始めた夢介と、押しかけ女房となったお銀。夢介は、金と善意、そして時にはお節介な性格ゆえの魅力で、次々に降り掛かる騒動を解決していきます。
「桃太郎侍」「遠山の金さん」などに代表される、山手氏が確立した“明朗時代小説”で、新しいヒーロー像となった夢介。争いを好まない主人公の“お節介”が、いつしか周囲の人々を変えていくさまは、夢介とお銀の恋模様も相まって、老若男女を問わず大評判となりました。
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原作者の山手樹一郎氏はどんな人?
山手樹一郎(やまて きいちろう)
1899(明治32)年2月11日、栃木県生まれ。東京田端で育つ。本名 井口長次。(旧制)明治中学卒業。出版社博文館に入社後、雑誌「少年少女 譚海」の編集長となり、さまざまな作家を支える。自身も小説を書き、1933(昭和8)年に「一年余日」が「サンデー毎日」大衆文芸賞で佳作となる。この時より山手樹一郎のペンネームを用いる。1939(昭和14)年に博文館を退社し作家生活に入り、長谷川伸氏に師事。翌年、初めての新聞連載『桃太郎侍』で作家としての地歩を固め、次々に小説を発表してベストセラー作家となる。ドラマ・映画化の作品は多数。『夢介千両みやげ』は戦後日本人の心を潤した代表作である。他に『十六文からす堂』、『又四郎行状記』、『崋山と長英』(野間文芸奨励賞)など多数。1978(昭和53)年3月16日、逝去(享年78歳)。
宝塚版『夢介千両みやげ』主な登場人物
夢介(彩風 咲奈)
相州(現在の神奈川県)小田原入生田村の、裕福な庄屋の息子。千両を使っての道楽修行を父から言い渡され、江戸を目指して旅に出る。田舎育ちの、純粋な人の好さから、金銭目当ての連中に目を付けられることもしばしば。しかし、どこか掴みどころがなく、知らず知らずに周りを自分のペースに巻き込んでいる。また、意図せず女性たちを夢中にさせる、不思議な魅力を持つ。腕っぷしは強いが喧嘩嫌い、心優しい善意の塊のような青年で、江戸でもお節介な性格を発揮。金と優しさで問題を解決するうちに、出会った人々に大きな影響を与えていく。
お銀(朝月 希和)
“オランダお銀”と呼ばれる、名うての女道中師(スリ)。人目を引く美人で、夢介を色仕掛けで騙そうとするが、彼の底抜けの優しさに触れ、その人柄に惚れてしまう。スリを辞め、夢介に相応しい気立ての良い人間になることを誓い押しかけ女房になるが、やきもちやきの一面を持ち、元来の気性の激しさを抑えきれずに悩む。情に厚い姐御肌だが、夢介の前では恋する乙女の可愛らしさも見せる。
総太郎(朝美 絢)
江戸の飛脚問屋・伊勢屋の放蕩(ほうとう)息子。流行りの着物に身を包み、通人を気取っては、芸者遊びなどに明け暮れている。夢介とは親同士が知り合いの間柄で、江戸に出て来たばかりの夢介を、通の遊び方を指南すると言って連れ出す。器量良しで、モテ過ぎるのが悩みの種だと豪語するが、実のところは女性に惚れやすく、たびたび夢介を厄介事に巻き込む。
嘉平(汝鳥 伶)
夢介の爺や。夢介が心配で、様子を見るため上京して来る。大切な“坊ちゃま”がお銀と暮らしていることを快く思っていない。
三太(和希 そら)
スリの少年。お銀とは、火災で焼け出された者たちが住む“お救い小屋”で苦楽を共にした、姉弟のような間柄。幼い弟と妹を養っている。
悪七(綾 凰華)
船頭で、本名は“七五郎”。一つ目の御前の手下。悪行三昧のチンピラで、夢介にも因縁を付ける。
金の字(縣 千)
自由気儘な遊び人。剣客修行の斎藤兄弟に同行中、夢介と知り合い、その人柄に惚れ込む。
『夢介千両みやげ』豆知識
『夢介千両みやげ』は、江戸の町を舞台にした痛快娯楽時代劇です。ここでは作品をより楽しむことができる、江戸時代の暮らしにまつわる4つの豆知識をご紹介します。
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Q:千両ってどれくらいの大金?
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江戸時代の通貨は、金貨・銀貨・銭貨の3種類ありましてな。わしら庶民は主に銭貨を使っとりますから、金貨の小判どころか、小判の16分の1の価値である1朱金ですら、手にする機会は少なかったんですよ。
千両がどのくらいの大金かは、江戸時代の中でも差があるようですが、千両ともなると、夢さん(夢介)が使ったのは推定約400万円~1,000万円?!今の皆さんが使うお金と単純には比べられないとはいえ、高い給金をとる人気スターを「千両役者」なんて呼んだように、庶民にとって、「千両」は大金と言って間違いないでしょうな。
ひと口メモ
小田原・庄屋の息子・夢介は、父親から“通人”となるため千両を使っての道楽修行を言い渡され江戸へ向かいます。さまざまなお金のやりとりが出てきますが、二十五両をひと包にしたものをその形から「切り餅」と呼ぶなど、当時ならではのお金の表現も。個性豊かな江戸の人々が巻き起こす騒動を、夢介はどのように“金と優しさ”で解決して行くのか?ご期待ください。
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Q:飛脚問屋ってなんだい?
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江戸時代、手紙や荷物を運ぶ人々のことを、手前どもは飛脚と呼んでおりました。飛脚問屋ってのは、江戸、京都、大坂を拠点として、そうした飛脚業を生業とした問屋のこと。商品や金子を運ぶだけではなく、為替業務も行っていましてね、まぁ、物流を広く担っていたわけでございますよ。
その後、明治時代に郵便制度が始まって、飛脚問屋は貨物専門の通運会社として発展していくことになるんですが、これは余談でございますね。
ひと口メモ
夢介は江戸の町で、飛脚問屋・伊勢屋の若旦那・総太郎に出会います。夢介が伊勢屋の人々と出会ったきっかけは?総太郎に教わる“遊び”とは?伊勢屋の人々との関係にも注目です。
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Q:どうやって江戸へ向かったの?
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夢さんは小田原を出発して、東海道を西から東へ歩いて江戸へとやってきたわけだけど、当時は五街道と呼ばれる5つの主要な街道が江戸へと通じ、その中でも東海道は最も利用され、五十三次と呼ばれる宿場が発展していたのさ。宿場には旅籠屋などの一般の旅人たちが休むための宿泊施設や、茶屋などの休憩施設も栄えて賑わっていたのよ。
西からの旅人が江戸へ向かう際に最後に泊まったのが、江戸から約30~40km離れた保土ヶ谷宿や戸塚宿と言われているから、これくらいの距離が1日で進める距離だと思っていいわね。小田原から江戸までは約80km。夢さんは丸2日かかるくらいの旅路を歩いたことになるわね。
ひと口メモ
夢介は小田原から江戸へ向かう道中、“オランダお銀”と呼ばれる女スリに懐を狙われます。修行中の剣客・斎藤新太郎や、弟の新次郎、斎藤兄弟と剣客修行に帯同していた遊び人の金の字など、街道で知り合う人々とのやりとりもお楽しみに。
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Q:どんな装いで旅に出たの?
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江戸時代は伊勢参りや富士参詣、大山詣り、江の島詣で、箱根などへの湯治の旅など、オイラたち庶民の間でも旅が大流行してたんだ。
もちろん、電車や飛行機なんて便利な移動手段はないから、目的地までの移動は徒歩が基本!荷物は少なく、歩きやすい装いが大切だね。男は股引(ももひき)の上から脚絆(きゃはん)、草履(ぞうり)や草鞋(わらじ) を履いて、荷物は小さくまとめた振分荷物(ふりわけにもつ)、そんで菅笠(すげがさ)や引廻し合羽(ひきまわしがっぱ)を纏って旅を楽しんだのさ。
ひと口メモ
当時、刀を持つことが認められていたのは武士だけですが、旅に出る時などは武士以外でも「道中差し」と呼ばれる短い刀を持つことが許されていました。護身用としてだけではなく、時には動物の皮をはいだり、魚をおろすなど、包丁や鉈の代用品として使われることもあったようです。『夢介千両みやげ』のポスターにも、股旅・三度笠姿で道中差しを携えた夢介が登場します。夢介たちの装いにも、ぜひご注目ください。