織田信長をひもとく

武将”織田信長”

「うつけ者」とも、「魔王」とも呼ばれた、覇者”織田信長”。
戦国乱世を駆け抜けた、苛烈なる織田信長の生涯とはどんなものだったのか・・・。
いま、改めて復習しておこう。

うつけもの“織田信長”

天下統一を目標に突き進んだ尾張の天才武将・織田信長。若い頃は奇抜な行動や身なりから、“尾張の大うつけ(大馬鹿者)”と呼ばれていたことは有名だ。町では物を食べ歩くなど身分不相応な行動で周囲を驚かせ、衣服は動きやすいように着崩し、頭髪は茶筅髷(ちゃせんまげ)を紅や萌黄色の糸で巻き派手に仕上げていた。そんな信長のうつけ振りを特に印象付けたのが、天文二十一年(1552年)、父・信秀の葬儀での出来事。とても葬儀には相応しくない格好で現れた信長は、祭壇に向かって抹香を投げ付け中座した。この行動は、当時対立していた尾張内外の他勢力へ、自分が真の後継者であることを知らしめるためだったという説がある。

運命を変えた「桶狭間の戦い」

10倍以上の軍勢を率いる今川軍を奇襲攻撃で打ち破り、
天下に名を馳せた。

信長の名が全国に知れ渡るきっかけとなったのが、永禄三年(1560年)の「桶狭間の戦い」である。父の死後、一族のなかで信長に反発する勢力を倒し、八郡からなる尾張の平定を果たしていた。この頃、強大な勢力を誇っていた駿河、遠江、三河の領主・今川義元が、尾張奪取を狙い侵攻。信長は「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」 と、幸若舞(こうわかまい)「敦盛」の一節を謡い舞うと、立ったまま湯漬けを食べるとわずかな手勢で出陣したと言われている。当初、織田軍の約10倍の兵力で挑む今川軍に対し、信長は圧倒的に不利と思われた。しかし、信長は桶狭間で休息中の今川軍に奇襲をかけ、大混乱となった今川軍を見事打ち破る。この勝利により、信長は天下取りへの大きな一歩を踏み出した。

魔王の片鱗をみせつけた「比叡山の焼き討ち」

天台宗の中心寺院を焼き払った「比叡山の焼き討ち」。
信長の非情さを印象付けた。

桶狭間で今川軍を破った後、着実に領土を拡大する信長。彼に敵対する勢力の一つに、比叡山の延暦寺があった。延暦寺は延暦七年(788年)に最澄が開いた天台宗の中心寺院。当時、こうした有力な寺院には対抗勢力と武力で争うために武装した僧兵集団がいた。延暦寺は信長の敵である浅井軍と朝倉軍に味方し両軍をかくまう。これが発端となり、元亀二年(1571年)、信長は延暦寺の焼き討ちを実行。信長軍はほぼ全ての建物を焼き払い、男女を問わず3,000人以上を皆殺しにしたといわれる。古くから人々に崇められてきた寺院を焼き討ちできるはずがないという世間の常識を覆し、信長の非情さを浮き彫りにする出来事となった。

戦いの形を変えた、長篠の戦い

徳川家康と協力し、武田軍勢を打ち破った長篠の戦い。かつてより興味を持っていた鉄砲を組織的に使用。鉄砲は以降、広く使われるようになる。

織田軍の勢力が増す中、天正三年(1575年)の「長篠の戦い」において、信長は新たな戦術で戦乱の世に革命を起こした。大量の鉄砲を組織的に使うことで、敵の騎馬隊を次々と粉砕したといわれている。鉄砲が日本に伝わって以来、信長はこの新しい武器にいち早く着目。“甲斐の虎”と呼ばれた武田信玄の死後も積極的に領土拡大を狙う武田勝頼の大軍を、3,000挺の鉄砲で迎え撃ち、歴史的な大勝利を収めた。大量の鉄砲を組織的に使うことで見事に武田軍を破ったこの戦いをきっかけに、戦場で鉄砲が広く使われるようになる。

安土城の築城

織田信長が琵琶湖畔に築城した5層7階の絢爛豪華な城。ここを拠点に全国統一を目指した。

長篠の戦いで強敵・武田軍を打ち破った信長は、天正七年(1579年)、滋賀県の琵琶湖東岸の安土山に、新しい拠点として安土城を築いた。山頂にそびえ立つ5層7階建ての城には、先駆的な武将として知られた信長らしい画期的な発想が随所で発揮された。これまでの城郭とは異なり、全山を石垣で覆い、寺院で使われることが多かった瓦を屋根に採用。金箔を施すなど、絢爛豪華な外観で周囲を圧倒した。天主内部は吹き抜けだったといわれ、内部には天才絵師・狩野永徳によるふすま絵を飾り、茶室や遊興の場に使われる板の間を設置。まさに、自分こそ天下人にふさわしいと考える信長の意思を象徴する城であった。

画像:近江八幡市提供・天主復元案は内藤昌氏監修
   凸版印刷株式会社制作

大胆な発想と行動力でさまざまな経済改革を起こす

全国統一のためには経済力が重要と考え、通行税のかかる関所を廃止し流通の自由化を図るなど斬新な経済改革をおこなった。

信長が天下人となり得るところまで辿り着けた理由は、武力だけではない。天下統一のために「経済力」が必要だと考えた信長は、領地の商業発展にも力を注いだ。その政策の一つに「楽市・楽座」がある。都市では、座と呼ばれる特権的同業者団体が市場を独占していたために、商業の自由が許されていなかった。そこで信長は座の特権をなくし、同時に通行税のかかる関所を廃止。道路や橋などの交通網を整備し、商人や職人が自由に行き来できるようにしたことで、安土の城下町を中心とする商業の活性化に成功した。こうした信長の商業政策は、今も高く評価されている。

本能寺の変

家臣の明智光秀の裏切りにより、本能寺で非業の死を遂げる。
障子の影が信長。

天正十年(1582年)、天下取りを目前に、信長は京都の本能寺で49歳の生涯を終えた。言わずと知れた「本能寺の変」である。中国地方を治める毛利氏討伐のため、羽柴秀吉の救援に出陣した信長は、途中の京都で宿泊中、臣下の明智光秀の襲撃を受ける。炎に包まれた本能寺で信長はこの世を去ったといわれているが、遺骸が見つかっていないことから、信長の死には多くの謎が残された。主君を裏切った光秀の動機は不明で、信長に代わって天下を取りたいという光秀の野心によるものという説や、光秀の謀反には黒幕がいたとの説もある。いずれにせよ、尾張一国から天下統一という大望を抱き、鮮やかに戦国乱世を駆け抜けた武将・織田信長の覇業は本能寺で終焉を迎えた。