桐野利秋の生きた時代
桐野利秋(中村半次郎)とは…?
桐野利秋は1838(天保9)年、薩摩藩の城下士の家に生まれた。当時の名前は中村半次郎。貧しい一家を支えていた半次郎は学問や剣術をまともに学ぶことが叶わなかったが、それでも、その剣の腕は目を見張るものがあったと言われている。
幕末の倒幕運動が盛んになると、桐野は同郷の西郷隆盛に付き従い、各地の戦場でその名を轟かせることとなる。
明治維新後は名前を中村半次郎から桐野利秋に改め、明治新政府はこれまでの彼の活躍を認め、1871(明治4)年に桐野は異例の若さで陸軍少将の命に就く。
しかし敬愛する西郷隆盛が明治政府を離れると知ると、桐野も共に下野し、薩摩へと帰郷する。そして、ついに宿命の西南戦争へと身を投じて行くこととなるのだった…。
——桐野利秋が操る剣術、野太刀自顕流
薩摩藩門外不出の兵法とされ、実戦を重視した古流剣術。新選組の近藤勇をも“薩摩の初太刀をはずせ”と言わしめた逸話も残っているという。流派の特徴は、相手を一撃で倒し、二の太刀を必要とせず、一刀に全力を注ぐというシンプルだが豪快なもの。
幕末にかけて門弟の中から優れた人物を多く輩出、桜田門外の変で大老・井伊直弼を斬首した「有村次佐衛門」や生麦事件でイギリス人商人を最初に斬りつけた「奈良原喜佐衛門」など多数。「人斬り半次郎」と恐れられた、今作の主人公である中村半次郎(後、桐野利秋に改名)もその一人。
『桜華に舞え』の舞台では、北翔海莉演じる主人公らが、「野太刀自顕流剣術」を実践していることも注目ポイントの一つだ。
齋藤吉正(『桜華に舞え』作・演出)が見た桐野利秋
学生の頃、桐野利秋という人物を知り、それ以来の“半次郎ファン”です。
桐野をひと言で表すと“心優しき暴れん坊”。彼のそういったところに魅力を感じています。
出演者が公演ゆかりの地をめぐる
新番組「プレ・ステージ!!」予告映像
タカラヅカ・スカイ・ステージにて公演関連の地をめぐる新番組「プレ・ステージ!!」がスタート!!
第1回は、星組公演『桜華に舞え』より主人公・桐野利秋の出身地である鹿児島と、彼が愛する娘の出身地である会津若松をご紹介。
放送日等の詳細は 番組ホームページ まで。
『桜華に舞え』の主人公・桐野利秋を中心に、彼が生きた江戸末期から明治初期のできごとをご紹介します。
年表
※下線のキーワードには解説があります
年 | できごと |
---|---|
1838 (天保6) |
薩摩藩に桐野利秋生誕 |
1853 (嘉永6) |
ペリーが浦賀に来航 |
1863 (文久3) |
・新撰組結成
・薩英戦争勃発
|
1864 (元治元) |
新撰組による池田屋事件 |
1866 (慶応2) |
薩長同盟締結 |
1867 (慶応3) |
大政奉還により政権が徳川幕府から朝廷へと移る |
1868 (慶応4) |
・鳥羽・伏見の戦いを機に戊辰戦争勃発 ・江戸を東京と改称、年号を明治とする ⇒明治維新 |
1869 (明治2) |
・東京へ遷都 ・大政管制を導入、版籍奉還を実施 |
1871 (明治4) |
・廃藩置県を実施 ・岩倉使節団出発 |
1873 (明治6) |
・岩倉使節団帰国 ・明治六年の政変 |
1874 (明治7) |
西郷隆盛、桐野利秋ら鹿児島に下野、私学校を設立 |
1877 (明治10) |
・西南戦争勃発 ⇒西郷軍が新政府軍に敗戦 ・桐野利秋戦死(享年40) |
キーワード解説
薩摩藩
現在の鹿児島や沖縄などの地方を支配下に置いた島津家の藩。江戸、京都から離れた地の利や貿易などで独自の文化を築き、桐野利秋や西郷隆盛、大久保利通など明治維新をリードする人材を輩出した。薩摩藩の幕末期のターニングポイントとなったのが文久三年(1863年)の「薩英戦争」。前年に起きた薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件を発端にイギリス海軍と一戦を交えたこの戦いで欧米列強の力を知った薩摩藩は、当時対立していた長州藩と慶応二年(1866年)に「薩長同盟」を結び、新しい日本を作るべく、倒幕の動きを加速させた。
戊辰戦争
慶応四年(1868年)、幕府が朝廷に政権を返上した大政奉還後、新体制に不満を持つ会津藩を主力とする旧幕府軍と、薩摩藩を中心とする新政府軍が京都で衝突。この「鳥羽・伏見の戦い」から、1年半に及ぶ日本を真っ二つに分けた内乱が始まる。中でも激戦地となった会津藩では、少年兵である白虎隊の兵力をかき集め、会津若松城で約1ヵ月間の篭城で抵抗するも、ついに降伏。その後、旧幕府軍は函館で新政府軍の総攻撃を受けて力尽き、戊辰戦争は終結する。
明治維新
戊辰戦争を終えた新政府は、近代国家にふさわしい政治体制を整える。その大きな目的は、地方政権の勃興を防ぎ、東京の新政府に権力を集約させる中央集権国家の建設だった。まず、太政官を最高官庁とする、立法・行政・司法の三権分立を原則とした「太政官制」を制定。そして、藩の領地と領民を朝廷に返上させる「版籍奉還」と、すべての藩を廃止する「廃藩置県」を行い、全国を直接統治下に置いた。これをきっかけに、四民平等をスローガンに、江戸時代の身分制度を廃止し、天皇を頂点とする統一国家を築いていく。
岩倉使節団
着々と国内体制の近代化を推し進める明治政府は、幕末期に欧米各国と結んだ不平等条約の改正を目指し、全権大使の岩倉具視と共に、大久保利通、木戸孝允ら政府の中心人物をアメリカ・ヨーロッパに派遣。しかし条約改正は進展せず、その成果は各国の近代産業の視察に留まった。
明治六年の政変
岩倉使節団が欧米を外遊している間、政府をまかされていた主要人物の一人、西郷隆盛は、韓国との国交問題を解決するために「征韓論」を唱え、政府内部ではその動きが高まっていた。しかし、外交よりも内政を優先すべきと主張する反対派の岩倉使節団が帰国すると、激しい議論が勃発。岩倉、大久保らは天皇の力を得て「征韓論」をめぐる混乱を鎮静した。これにより、西郷は明治政府を去ることとなる。
私学校
鹿児島に下野した西郷は、身分制度が廃止され特権を失って、不満を抱える士族たちのために、彼らの教育施設として私学校を創設。戦術や漢字などの学習を通じて、国家に役立つ人材の育成を目指した。やがて広がりを見せた私学校の生徒数は3万人までに増え、私学校党と呼ばれる一大勢力へと発展した。
西南戦争
私学校党の盛り上がりに不安を感じた明治政府は、鹿児島へ視察隊を派遣。その動きを知った私学校党は視察隊の一員を拘束し、西郷暗殺の自供を得たと言われる。さらに、鹿児島各地にあった政府の弾薬庫を襲撃。私学校では桐野らが決起の意志を高める中、それまで彼らを抑えていた西郷も、ついに決起を決意。「西南戦争」が勃発する。西郷軍は熊本城を目指すが各地から到着した政府軍に押され、激闘の末に敗北。日本最後の内戦と言われる「西南戦争」は終結した。
知っていたらより楽しめるかも!?
“かごんま弁”プチ講座
今作で出演者たちが使用していることば「かごんま弁」、つまり「鹿児島弁」は、日本の方言の中でもかなり難しい部類に入ると言われている。特徴的なアクセントやイントネーション、活用、語彙一つとっても、非常に難解ではあるが実に奥深く、そして興味深い……。ここでは、舞台でも使用されている「鹿児島弁」の一部をご紹介しよう。
◆おやっとさぁ | |
「おつかれさま」「ごくろうさま」の意味。労をねぎらうことば。目上に対しては「ございもす(=ございます)」を付けて、「おやっとさぁでございもす」というように用いる。 | |
◆げんね、げんねか(なか) | |
「恥ずかしい」という意味で、照れ隠しで「わっせげんねか~」というように用いる。ちなみに「わっせ(か)」は「大変」の意味を指す。 | |
◆じゃっど、じゃろが | |
「じゃ=そう」という意味。その変化形として「じゃっど(=そうだ)」「じゃろが?(=そうだろ?)」と用いる。賛同の意を表わす「じゃっどじゃっど!」はよく使うフレーズ。 | |
◆チェスト | |
鼓舞する際に用いるフレーズ。「いくぞ!」という意味。元来、桐野利秋も研鑚した“野太刀自顕流”の門下生が一太刀に全力をかける際のかけ声だったという説も……。現在では「チェスト行け(頑張って行け)!」など、応援の意味で使用することが多い。 | |
◆泣こかい 飛ぼかい 泣こよかひっ飛べ | |
「泣いているくらいなら思い切って飛んでしまえ」という、古くから鹿児島地方に伝わることば。男気を大事にして行動を重んじる“薩摩藩の男たち”の気風に通ずるものがあり、こうした一本筋の通った大胆な男を「ぼっけもん」と呼ぶ。 |
★ワンポイント★
鹿児島県では、西郷隆盛のことを敬愛して「西郷(せご)先生(せんせ)」や「西郷(せご)殿(どん)」と呼ぶことが多いとか。北翔海莉演じる桐野利秋と、美城れん演じる“せごせんせ”の関係性にも注目です!