『霧深きエルベのほとり』の魅力
演出家 上田久美子が語る Once upon a time in Takarazuka『霧深きエルベのほとり』の見どころ<前編>
芝居の作・演出では登場人物の緻密な心理描写を得意としながら、2018年『BADDY(バッディ)-悪党(ヤツ)は月からやって来る—』でショー作家としてのデビューも果たし、その真新しい作風が話題となった演出家・上田久美子。宝塚歌劇の名作『霧深きエルベのほとり』の再演という新たな挑戦に対する思いを聞いた。
『霧深きエルベのほとり』との出合いと、その時感じた作品の魅力について。
入団前より、私はショー作家を目指していましたので、お芝居の台本は書いたことがなく、入団試験を受けるにあたって勉強のためにインターネットで“宝塚 名作”と検索した際、ヒットした作品の一つがこの『霧深きエルベのほとり』でした。台本を読んで、初めは主人公カールの言葉遣いの荒さに驚き、宝塚歌劇の主役として相応しいキャラクターだろうかと疑問が浮かんだものの、読み進めるうち、彼の生き様や内面の格好よさを感じさせる、なんて素晴らしい台本なんだろうと敬意の念を抱きました。特に“俺がもし文士なら…”とカールが独白する長い台詞の素晴らしさに感激したことを、今でもはっきり覚えています。宝塚歌劇には既にこんなに素晴らしい作品があって、そこに入団して私に何ができるだろう、邪魔になるだけではないだろうかと怯むほど、非常に衝撃を受けましたね(笑)。シンプルなストーリーの中に浮かび上がる、人間の心の機微と奥深さがこの作品の魅力だと思います。
この作品をご覧になったときの印象は?
劇団に入ってから、順みつきさん主演の公演(1983年花組)を映像で観ましたが、台本で読んだ時とはまた違った感動があり号泣してしまいました(笑)。当時のタカラヅカのスターは、特有の濃厚さと言いますか、一般の俳優さんとは違う特殊な伝統芸能的な技術を身につけておられることが、とても素晴らしく感じました。
今、このタイミングで再演する理由。
今の世の中は加速度的に変化していますよね。昔のことは言っても仕方がない、現状を受け入れなければいけない、という風潮で、ある意味で時代におもねらなければならない。しかし、人は本来、現実に周りにいるライバルと戦うこと以上に、過去の自分と戦わなければいけないと思うのです。過去の自分を超えているか、過去の自分に恥じることをしていないかと意識しながら、時には立ち止まって、今進もうとしている方向と過去の自分とが引っ張り合うことも大切なのではないかと。そういった意味でも、宝塚歌劇には過去にこんなに素晴らしい誇るべき作品があったのだということを、私自身も思い返したい時期ですし、出演者にも、そしてファンの方々にも知っていただきたいという思いが、再演に至ったきっかけです。“昔のもの=古臭い”ではなく、“新しいことだけが素晴らしい”でもないということを立証したいと思います。
再演にあたって変更する部分は?
菊田一夫先生が書かれた台本の良さを最大限にお伝えしたいというのが私の一番の思いですので、変に凝るようなことはせずに、台本の良い印象は全部引き継ぎたいと思っています。特にカールとマルギットの場面は変更のしようがないほど完成されているので、ほぼそのままですね。ただ、再演を重ねるなかで、その時々の組の陣容に合わせて作られたと思われる場面転換中の幕間芝居に関しては、今回も今の星組に合わせて一新する予定です。そして、ヒロインをとりまく旧弊な社会の様子からは本来の作品の舞台となっている1960年代よりも前の印象を受けるので、私の頭の中ではもう少しさかのぼった1930年くらいに、時代を設定し直しています。また、この作品はドイツを舞台にしていますが、内容的には実は完璧に日本人のメンタリティのお話だと感じます。ですから、あまり国や時代を特定せず、“ヨーロッパのどこかの国のお伽話”という雰囲気で作るのが、今回のコンセプトでもあります。
物語の舞台、ハンブルグを訪れたことは?
『翼ある人びと—ブラームスとクララ・シューマン—』(2014年宙組)を書いた時、ドイツの音楽家の史跡を巡るためにハンブルグに行きました。港町というイメージを強く持っていましたが、実際は河口に隣接した街なので、海に面したいわゆる“港町”とは違うと感じました。『霧深きエルベのほとり』の昔のプログラムに掲載されている菊田先生のお言葉の中に、荒々しい工業港湾都市を少しはずれると女性的な白樺林が広がっていて、その二つが“結婚”したらどうなるだろうかという発想からこの物語を思いついたというお話があり、その素晴らしい感性にとても感銘を受けました。菊田先生がハンブルグから受けた印象からできた物語なので、前回までの公演は工業的な港の風景になっていましたが、今回はお客様が“港町”と聞いて一般的にイメージされそうな風景を描こうと思っています。
演出家 上田久美子が語る Once upon a time in Takarazuka『霧深きエルベのほとり』の見どころ<後編>
インタビュー<後編>では、紅ゆずる率いる星組の印象や、期待することについて聞いた。
紅ゆずるが演じるカール・シュナイダー役について。
カールはわざと不真面目にふるまったり物事を冗談めかしたりして、何が本心なのかわからないような面がありますが、実はとても真面目で誠実な男性です。そういうところが紅と非常に合致していると思います。彼女もユーモアを前面に出している部分がありますが、実は周りの人の気持ちがよくわかる繊細な人です。もし私が彼女を主演にした新作を作るとしても、このカールのような役を書いていただろうと思います。しかしながら、カールのような本物の男らしさを持つ役を生き生きと魅力的に描くには、今の私の力ではまだまだ及びませんので、今回は菊田先生のお力をお借りしたいと思っています。
綺咲愛里が演じるマルギット・シュラック役について。
いかにもお嬢様らしくて綺麗なマルギットは、綺咲の雰囲気によく合っているように思います。三島由紀夫の書いた「鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)」という歌舞伎の中に、鰯売の声に魅かれてお城を抜け出し、人買いに買われて遊女になった蛍火というお姫様の話が出てくるのですが、マルギットも私の中ではそんな浮世離れしたイメージです。しかしマルギットはそれだけではなく、浮世離れしたお嬢様だからこその世間知らずな純粋さと、でもどこかに相反するような強さがあります。そういったところが実はとても難しい役だと思いますが、綺咲もマルギットのような強さを持っていますから、うまく演じてくれるでしょう。
礼真琴が演じるフロリアン・ザイデル役について。
フロリアンという役は宝塚歌劇特有の理想化された男性像で、実際にはいるはずのないような好人物です。そこに何かしらのリアリティを与えるためには、演じる役者自身が持っている人としての温かさや人間性が問われます。下手をすると信憑性がない人物に見えてしまいますから。礼は、非常に技術面で優れているがゆえにそちらに注目されがちですが、多くの経験を積み、内面的な部分が充実してきたように思います。その内面を、このフロリアンという役を演じることで更に深めてくれるのではないかと、とても期待しています。
その他、個性豊かな星組について。
星組は、古き良き時代の宝塚歌劇の情や絆がとても残っている組だと感じます。タカラヅカには、懐かしい温かみのある関西的なムードがあり、私はその雰囲気が大好きです。宝塚歌劇団は、関西らしい諧謔(かいぎゃく)の精神で、どんなことでも思い切りよくやってのけ、また受け入れる寛容さも持ちあわせていますし(笑)、派手なショーや、男役という不思議な存在自体も、関西という土壌だからこそ生まれたのではないでしょうか。そんな関西的な良さを持つ星組と、『霧深きエルベのほとり』という古き良き宝塚歌劇の精神をもった作品との相性はとても良いのではないかと想像し、楽しみにしています。
最後に、お客様へのメッセージを。
宝塚歌劇105周年を迎えるお正月の宝塚大劇場公演ということで、綺羅星のような星組のスターたちの輝きをご覧いただこうと、これまではなかったプロローグの場面をご用意しております。大階段を使用した、出演者ほぼ全員による華やかなプロローグですので、そこが一つの見どころになりそうです。この作品の持つ魅力は、人間の良心や道徳性、倫理観のような部分にあり、そのテーマをお伝えするのが私の使命だと思っています。演出する私にとっても、出演者にとっても、そしてご覧になるお客様にとっても、心を育ててくれる何かがきっとあると思います。物語の素晴らしさは保証いたします。ぜひ、楽しみに劇場にいらしてください。
【プロフィール】
上田 久美子
奈良県出身。2006年宝塚歌劇団入団。2013年『月雲(つきぐも)の皇子(みこ)』-衣通姫(そとおりひめ)伝説より-(月組)で演出家デビュー。宝塚大劇場デビュー作『星逢一夜(ほしあいひとよ)』(2015年雪組)で、読売演劇大賞の優秀演出家賞を受賞。心の機微を繊細かつ丁寧に描いた『金色(こんじき)の砂漠』(2016年花組)でも、その独自の世界観で観客を魅了した。2017年、『神々の土地』(宙組)では、ロシア革命前夜を舞台に、歴史に翻弄された主人公の愛と葛藤を圧倒的な美の世界で見事に表現。2018年には自身初となるショー作品『BADDY(バッディ)-悪党(ヤツ)は月からやって来る—』の斬新な演出が話題となった。今回の星組公演にて、再演を重ねてきた菊田一夫氏の不朽の名作に臨む。
時代を越えて甦る愛の物語
時を越えて愛されてきた甘く切ないロマンスが、36年の歳月を経て、演出家・上田久美子によって、2019年の幕開けを飾る星組公演で甦ります。多くのファンを魅了してきた『霧深きエルベのほとり』の、いまだ色褪せぬその輝きとは? これまでの上演を辿りながら、名作の魅力に迫ります。
劇作家・菊田一夫氏の珠玉の名作『霧深きエルベのほとり』
演劇界の草分け的存在であり、日本で初めてブロードウェイ・ミュージカルを上演したことでも知られる劇作家・菊田一夫氏。多方面で活躍した菊田氏のキャリアの中には、宝塚歌劇に提供した作品も数多く含まれています。そのひとつ、『霧深きエルベのほとり』は、菊田氏が宝塚歌劇のために書き下ろしたオリジナル作品です。
物語の舞台は、エルベ河に隣接するドイツの港町ハンブルグ。年に一度のビア祭りの夜、長い船旅を終えたばかりの船乗りカールは、家出娘のマルギットと出逢い、たちまち恋に落ちます。人生を共にしようと誓い合う二人。しかし、良家の娘であるマルギットの家族は、カールを冷たくあしらうのでした……。
深い人間考察に基づいた濃厚な心理ドラマが、菊田作品の魅力のひとつ。『霧深きエルベのほとり』は、ストーリー自体は分かりやすく組み立てられていますが、その分、主人公や彼を取り巻く人々の心情が細やかに描かれ、いつまでも余韻にひたれるような、時折思い返さずにはいられない名作となりました。
これまでの公演
粗野な青年という、およそ宝塚歌劇の主人公としては異端の役どころであるカール。しかし、菊田氏は男らしさや包容力、秘めた優しさこそがこの青年の魅力であることを、切ない恋物語が進む中で浮き彫りにしていきます。この、従来とは異なる魅力の男役像は、名だたるスターたちを輝かせ、また彼女たちによって輝かされたのです。
ここでは過去の公演をご紹介します。
Once upon a time in Takarazuka…、昔々の、タカラヅカ—。
1963年 月組公演
演出:菊田一夫
主演:内重のぼる、淀かほる
脚本を担当した菊田氏自ら演出も手掛けた、記念すべき初演。不良っぽい役が似合う内重のぼる独特の持ち味を、菊田氏の演出が最大限に引き出し、それにこたえた内重は、宝塚歌劇の男役の可能性を広げた。
1967年 月組公演
演出:菊田一夫、鴨川清作
主演:内重のぼる、八汐路まり
当たり役となったカール役に、さらに円熟味を増した内重のぼるが再び挑んだ、待望の再演。タカラヅカの一時代を築いた彼女の、集大成ともいえる作品となった。
1973年 月組公演
演出:菊田一夫、鴨川清作
主演:古城都、初風諄
1967年の公演でマルギットの婚約者フロリアンを演じた古城都が主演。正統派男役の古城にとって、アウトローなカール役は大きな挑戦であったが、見事に演じきり、好評を博した。
1983年 花組公演
潤色・演出:柴田侑宏
主演:順みつき、若葉ひろみ
人の心の機微を描くことに定評のある柴田が演出を担当。初演の公演に衝撃を受け、以来、カール役を熱望していた順みつきにとっては悲願の作品。男らしさのなかにも繊細さを滲ませ、観客の涙を誘った。
菊田一夫氏からのバトン~演出家・上田久美子の新たな挑戦
『霧深きエルベのほとり』初演に至るまでにも、菊田氏はいくつもの名作を宝塚歌劇に提供しています。その中には、かなり冒険的といっていいものも含まれ、演劇界のパイオニアとして常に新しいものを探求してきた跡がうかがえます。しかし、それはタカラヅカらしさを脇に置いてのことではなく、宝塚歌劇ならではの魅力を熟知していたからこそ成し得たことでした。
時代は移り、2019年、『霧深きエルベのほとり』に惚れ込んだ演出家・上田久美子が、この物語のバトンを受け継ぎます。上田もまた、宝塚歌劇の伝統を大切にしつつ、それぞれの作品で新たな試みを意欲的に取り入れてきました。2013年のデビュー以来、手掛けたジャンルは実に様々。それぞれに冒険をしながらも、一貫して登場人物の心情を丁寧に描くことを心掛けてきました。こうして一作ごとに演出家としての幅を広げ、この度、宝塚歌劇史上に残る不朽の名作『霧深きエルベのほとり』に、これが初めてのタッグとなる星組と共に挑みます。紅ゆずるはじめ、個性豊かな役者が揃う星組による懐かしくも新しい舞台、そして、時を越えて融合する菊田一夫氏と上田久美子の世界に、どうぞご期待ください!
次のページでは、カールとマルギットの出逢いの場、ハンブルグとビア祭り についてご紹介します。
ロマンスのはじまり
ここでは、『霧深きエルベのほとり』の舞台となる、ハンブルグの街とビア祭りについてご紹介します。
魅力あふれる街ハンブルグ
エルベとは、ドイツ北部の都市ハンブルグを流れるエルベ河のこと。チェコ北部からドイツ東部を流れ、ハンブルグ付近で北海へと注ぐ、ヨーロッパを代表する国際河川のひとつです。実際には海に面していないハンブルグですが、このエルベ河を活用した運河を張り巡らせた港湾都市として、貿易により商業的発展を遂げ、ドイツ第二の都市にまで成長しました。
主人公・カールのような船乗りたちは、ここハンブルグ港から大切な人々に別れを告げ、時には数年にもおよぶ長い航海へと旅立っていったことでしょう。
ハンブルグは森林や公園などが多く、緑豊かな街でもあります。ゆえに、「水と緑の都」「北ドイツのヴェネツィア」と呼ばれることも。このように景観に恵まれた街をさらに魅惑的に演出しているのが、ハンブルグ特有の天候です。「ハンブルグの人は傘を手にして生まれてくる」といわれるほど、一年を通して曇りや霧雨の日が多く、濃霧が立ち込めることも少なくありません。タイトルにある“霧深きエルベ”は、ここで暮らす人にとっては日常的な光景なのです。
停泊する外国船や、街中を流れる運河、赤レンガの倉庫群……そんな異国情緒漂うハンブルグの風景を、霧はおぼろげに浮かび上がらせます。過去の公演では、カールとマルギットが運河を進む小舟に揺られカフェへと向かうシーンなど、ハンブルグの特徴を活かした美しくロマンティックな演出も見どころでした。2019年版では街がどんな風に二人の恋を盛り上げるのかも、ご注目ください。
ビア祭り
カールとマルギットを引き合わせたビア祭り。“オクトーバーフェスト”とも呼ばれるこの祭りの起源は、1810年、現在のドイツ南部に位置するバイエルン王国皇太子の結婚式でした。その際、民衆にビールを振る舞ったところ、これが大変喜ばれ、やがてビールの醸造シーズンを祝う祭りへと発展しました。
こうして始まったビア祭りは、ドイツの国民的なイベントとして、ハンブルグをはじめ北部の街でも、人々が毎年心待ちにするお祭りとなっています。
105周年のスタートに相応しく、宝塚歌劇の伝統薫る星組公演『霧深きエルベのほとり』を、どうぞお楽しみに!