時代背景

夢想願流剣術 むそうがんりゅうけんじゅつ

願流(がんりゅう)とは、仙台藩で盛んであった近世剣術の一流派。流祖はのちに仙台藩剣術指南役となる松林左馬之助永吉(まつばやしさまのすけながよし)(1593-1667)。願立流、松林願立夢想流、無雲流ともいう。

慶長遣欧使節団 けいちょうけんおうしせつだん

今から約400年前の1613年に、仙台藩主伊達政宗が スペイン国王およびローマ教皇のもとに派遣した外交使節。1620年に帰国。数名の日本人は、帰国せずスペインにとどまったとみられている。

伊達政宗 だてまさむね(1567-1636)

戦国末期から江戸初期の大名。豊臣家、徳川家に仕え、仙台藩の藩祖として手腕を奮った。幼少時に右眼を失明し、隻眼であったことから「独眼竜」と称されている。支倉常長らをローマへ派遣した人物。

支倉常長 はせくらつねなが(1571-1622)

陸奥(むつ)仙台藩士。伊達政宗の命で、宣教師ソテロら とともにメキシコをへてスペインにわたり、フェリペ3世に書状を献上、さらにローマにおもむき教皇パウロ5世に謁見した。通商交渉は叶わず、帰国。

フェリペ3世 Felipe (1578-1621)

スペイン国王(在位1598-1621)。1609年にオランダと休戦協定を結び、その独立を事実上認めるなど、列強国との融和を図り、国に平和をもたらした。その一方で、寵臣に政治を任せて遊びや芸事にふけったため、スペインの没落を早めた。

慶長使節船「サン・ファン・バウティスタ号」

仙台藩によって作られた帆船で、慶長遣欧使節団の航海で使用された。乗組員は、大使である支倉常長、ルイス・ソテロの2人の他、仙台藩士、幕府の役人、全国から集まった商人、キリシタン、南蛮人(スペイン人)など。また当時日本に来ていたスペインの大使ビスカイノの船が嵐で破損したため、彼らも同乗し、総勢約180名で出帆した。

ルイス・ソテロ Luis Sotelo(1574-1624)

スペイン出身の司祭で、フランシスコ会士。慶長遣欧使節団には大使として加わり、同じく大使である支倉常長の通訳・案内役も務めた。

「ハポン」姓

「ハポン」はスペイン語で「日本」の意味。スペインでは出身地を苗字につけることが多い。稲作の技術を持っていること、生まれてくる子供に蒙古斑があること、使節団の滞在後に「ハポン」姓の人々の存在が確認されていることなどから、慶長遣欧使節の末裔ではないかと考えられている。現在もコリア・デル・リオ市をはじめセビリア周辺出身者にはハポン姓が多くみられる。

コリア・デル・リオ

セビリアの南方約15kmに位置する町で、ハポン、すなわち「日本」という姓を持つ人がいる。慶長遣欧使節団が滞在していた。

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『El Japón(エル ハポン) -イスパニアのサムライ-』では、真風涼帆が演じる夢想願流剣術の名手・蒲田治道が、慶長遣欧使節団でヨーロッパに派遣された仙台藩士として描かれます。
いわゆる鎖国状態以前の日本では、各国から交易船が訪れるなど、国際交流が行われていましたが、日本からもまた、遥か遠い異国を目指し、海原へ向かう者たちがいたのです。
この作品が描かれる時代の背景をご紹介します。

画像 慶長遣欧使節団の渡航に使用されたサン・ファン・バウティスタ号(復元船)

慶長遣欧使節団の目的

1603年(慶長8)に徳川家康により江戸幕府が開かれ、日本が戦乱の時代に終わりを告げようとしていた時代。慶長遣欧使節団は、1613年(慶長18)、仙台藩の初代藩主・伊達政宗の命によって、家臣の支倉常長を筆頭に、メキシコやスペインなど遠い異国を目指し、仙台から出航しました。

使節団の目的は、スペイン本国に加え、当時ノビスパン(またはノバ・イスパニア=新しいイスパニア)と呼ばれていたメキシコとの貿易をフェリペ3世と交渉すること、そして仙台藩へのキリスト教宣教師の派遣をローマ教皇に求めることでした。

禁教令を発布した江戸幕府と、宣教師派遣を求める伊達政宗では、互いに異なる政策を進めていましたが、使節団の船には幕府の役人も同乗するなど、意見の相違がありながらも両者ともに異国との貿易に魅力を感じていたことがうかがえます。
また、直前の1611年には慶長三陸地震が発生していることから、藩の財政を立て直すための復興対策であったともいわれています。

画像 伊達政宗像(宮城県仙台市)

慶長遣欧使節団の足跡

1613年10月、仙台を出航したサン・ファン・バウティスタ号は、翌年、メキシコを経て、スペインに上陸。欧州へは31名(うち日本人26名)の慶長遣欧使節団が向かったとされています。1615年(慶長20)1月 に、一行は、スペイン国王フェリペ3世に謁見します。そののち、団長の支倉常長と、使節団に伴った宣教師ルイス・ソテロらはローマに向かい、ヴァチカン宮殿でローマ教皇パウロ5世への謁見も果たしますが、スペインに戻ると、スペイン政府から国外退去を命じられてしまいます。
再びメキシコなどを経由し、彼らが再び日本の地を踏んだのは、出発から7年後となる1620年(元和6)のことでした。

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「日本」の名を持つスペイン人

慶長遣欧使節団が旅立つ前年の1612年に、江戸幕府からキリスト教を禁じる禁教令が出されたことから、使節団にいたキリシタンのなかには、初めから日本に戻るつもりがない者もいたと考えられています。また、スペインの人々と風土に魅力を感じ、現地にとどまった人物もいました。
誰が帰国し、誰が異国に残ったのかは、いまだに明確でないところもありますが、ハポン姓を名乗るスペイン人は、自分たちがサムライの末裔であると信じています。

約400年を経た今も、ハポン姓を持つスペインの方々が仙台を訪れるなど、仙台とコリア・デル・リオの民間交流は続いています。
慶長遣欧使節団は、西洋への航海が長い年月を要し命がけであった時代に、今日の友好親善の礎を築いたといえるでしょう。

画像 コリア・デル・リオの風景


数奇な運命を辿った慶長遣欧使節団を背景とし、スペインの地を舞台に繰り広げる快活な作品『El Japón(エル ハポン) -イスパニアのサムライ-』に、真風涼帆率いる宙組が挑みます。ぜひ劇場でお楽しみください!