時代背景
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『El Japón(エル ハポン) -イスパニアのサムライ-』では、真風涼帆が演じる夢想願流剣術の名手・蒲田治道が、慶長遣欧使節団でヨーロッパに派遣された仙台藩士として描かれます。
いわゆる鎖国状態以前の日本では、各国から交易船が訪れるなど、国際交流が行われていましたが、日本からもまた、遥か遠い異国を目指し、海原へ向かう者たちがいたのです。
この作品が描かれる時代の背景をご紹介します。
慶長遣欧使節団の目的
1603年(慶長8)に徳川家康により江戸幕府が開かれ、日本が戦乱の時代に終わりを告げようとしていた時代。慶長遣欧使節団は、1613年(慶長18)、仙台藩の初代藩主・伊達政宗の命によって、家臣の支倉常長を筆頭に、メキシコやスペインなど遠い異国を目指し、仙台から出航しました。
使節団の目的は、スペイン本国に加え、当時ノビスパン(またはノバ・イスパニア=新しいイスパニア)と呼ばれていたメキシコとの貿易をフェリペ3世と交渉すること、そして仙台藩へのキリスト教宣教師の派遣をローマ教皇に求めることでした。
禁教令を発布した江戸幕府と、宣教師派遣を求める伊達政宗では、互いに異なる政策を進めていましたが、使節団の船には幕府の役人も同乗するなど、意見の相違がありながらも両者ともに異国との貿易に魅力を感じていたことがうかがえます。
また、直前の1611年には慶長三陸地震が発生していることから、藩の財政を立て直すための復興対策であったともいわれています。
慶長遣欧使節団の足跡
1613年10月、仙台を出航したサン・ファン・バウティスタ号は、翌年、メキシコを経て、スペインに上陸。欧州へは31名(うち日本人26名)の慶長遣欧使節団が向かったとされています。1615年(慶長20)1月 に、一行は、スペイン国王フェリペ3世に謁見します。そののち、団長の支倉常長と、使節団に伴った宣教師ルイス・ソテロらはローマに向かい、ヴァチカン宮殿でローマ教皇パウロ5世への謁見も果たしますが、スペインに戻ると、スペイン政府から国外退去を命じられてしまいます。
再びメキシコなどを経由し、彼らが再び日本の地を踏んだのは、出発から7年後となる1620年(元和6)のことでした。
「日本」の名を持つスペイン人
慶長遣欧使節団が旅立つ前年の1612年に、江戸幕府からキリスト教を禁じる禁教令が出されたことから、使節団にいたキリシタンのなかには、初めから日本に戻るつもりがない者もいたと考えられています。また、スペインの人々と風土に魅力を感じ、現地にとどまった人物もいました。
誰が帰国し、誰が異国に残ったのかは、いまだに明確でないところもありますが、ハポン姓を名乗るスペイン人は、自分たちがサムライの末裔であると信じています。
約400年を経た今も、ハポン姓を持つスペインの方々が仙台を訪れるなど、仙台とコリア・デル・リオの民間交流は続いています。
慶長遣欧使節団は、西洋への航海が長い年月を要し命がけであった時代に、今日の友好親善の礎を築いたといえるでしょう。
数奇な運命を辿った慶長遣欧使節団を背景とし、スペインの地を舞台に繰り広げる快活な作品『El Japón(エル ハポン) -イスパニアのサムライ-』に、真風涼帆率いる宙組が挑みます。ぜひ劇場でお楽しみください!