「ピアノの魔術師」と呼ばれた男、フランツ・リスト
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人気作曲家、ピアニストとしてロマン派音楽の盛期を駆け抜けたフランツ・リスト。演奏活動にとどまらず、生涯を音楽に捧げて偉業を遺した彼の華やかな人生と、その秘められた横顔をのぞいてみましょう。
クラシック華やかなりし時代の寵児
スター・ピアニストとなったリスト
1811年、フランツ・リストは、ハンガリーのドボルヤーンという街(現在はオーストリアのライディング)で生を受けました。幼い頃から父親にピアノの手ほどきを受けたリストは、その才能を開花させます。
青年期を迎えたリストは、当時ヴァイオリニストとして人気を博していたニコロ・パガニーニの超絶技巧を駆使した圧倒的な演奏に衝撃を受け、自らはピアノでそれを成すことを決意したと言われています。
その後、天才的な技術で奏でる情熱的かつ繊細な演奏と天賦の美貌で、リストは一気にピアニストとしての名声を得ました。そして、28歳になった1839年から実に約1,000回、8年にも及ぶコンサート・ツアーで、ヨーロッパ中の人々を魅了したのです。
一躍時代の寵児となり、スイスやイタリアなどを放浪したリストを、「ヨーロッパ人」と称する人もいます。
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─ 少年リスト、大ブレイク前の挫折
故郷で神童と称されていたリストは、息子の才能に賭けた父とともに、音楽修業でヨーロッパを遍歴します。ところが、芸術文化の中心地パリで音楽院への入学を断られるなど、大きな挫折を経験。やがて父を亡くし、自分の能力で人生を切り拓かざるをえなくなった頃には青年に成長、“神童”と呼ばれる価値を失っていました。そのためか、音楽史から姿を消した時期が2年ほどあったのですよ。
◆ヨーロッパで巻き起こったリスト・フィーバー
パリの社交界で絶大な人気を博したリストは、演奏のテクニックはもちろんのこと、その美しさでも人々を虜にしていました。端正な顔立ち、肩になびく美しい髪、華麗なメロディを紡ぐ繊細な指先…。彼がサロンに登場するとあまりの眩しさに目がくらむほどだったとも言います。また、立ち居振る舞いも完璧な紳士だったとの記述が多く残されています。
情熱的で卓越した演奏技術の中に見え隠れする脆さや憂いに満ちた表情に、多くの人々が熱狂し、特に女性は失神するほどだったというエピソードも残されています。
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─ これぞスーパースター!
リストは、音楽家、演奏家であるとともに、現代の芸能人のような存在だったのでしょう。誰にもできないパフォーマンス、そして自ら「超絶技巧」と言ってしまうナルシシズム——彼は自ら“フランツ・リスト像”をつくり上げ、パリでアイドル的な人気を獲得しました。演奏会では貴婦人たちが壺や瓶を手に、彼の汗や髪の毛を確保しようと殺到したというから凄いですよね(笑)。数あるリストの逸話から、花組公演でもいくつかピックアップしますのでお楽しみに!
リストを取り巻く人々
── 運命の恋人 マリー・ダグー伯爵夫人 ──
21歳の冬、リストは運命の人と出逢います。マリー・ダグー伯爵夫人です。リストより6歳年上だった彼女は、パリ社交界で三本の指に入ると謳われた美貌の持ち主でした。二人はたちまち恋に落ちますが、その時マリーには既に夫と二人の娘がいました。
当時のフランスの貴族社会において、このような恋愛は珍しいことではありませんでしたが、彼らの恋は大スキャンダルへと発展します。マリーがリストの子を身ごもったのです。家族、家柄、財産、そのすべてを捨てて、マリーはリストとともに生きる道を選びました。
スイスに駆け落ちした二人は、その後イタリアに移り、ヴェネツィア、ローマ、ナポリ、フィレンツェと、旅を続けました。その間三人の子供をもうけ、次女のコジマは後にワーグナーと結婚しています。
リストはこの時期の美しい思い出を作品集「巡礼の年」に遺しました。
── 最強のライバル フレデリック・ショパン ──
19世紀のパリでリストと人気を二分していたのが、「ピアノの詩人」フレデリック・ショパン。リストはともにパリに滞在した三年半、彼との親交を深めました。
現在ではピアノの二大巨匠と称される二人は、音楽的表現方法も性格も、対極にあるかのように異なっていました。超絶技巧を駆使した華やかな演奏で人々を魅了したリストに対し、ショパンの演奏は詩的な抒情性を湛え、聴衆の内面に静かに訴えかけました。また、リストが数えきれないほどのコンサートを行ったのに対し、人前での演奏を好まなかったショパンは、パリでの20年間でわずか十数回しか公開演奏会を行っていません。
ライバルと言われながらも才能を認め合い、互いの音楽を愛し、良き友人だった二人の天才。ショパンの死後、リストが自らの手で彼の伝記を書いていることからも、その友情の深さがうかがえます。
作曲家としてのフランツ・リスト
1847年、36歳でコンサート・ピアニストから引退したリストは、翌年、ワイマール宮廷楽長に就任。作曲、指揮、教育活動に心血を注ぎますが、中でも彼の活動の中心になったのが、作曲でした。そして、「交響詩」という新ジャンルを誕生させ、音楽に新たな風を吹き込みました。
その後聖職者となったリストは、宗教音楽の作曲にも力を入れています。
「巡礼の年」
花組公演のタイトルともなっている「巡礼の年」は、リストが20代から60代の長きにわたる間に書いたピアノ独奏曲を集めた作品集です。人生を通して訪れた地での経験や目にしたものを音楽に表現しており、その時々の彼の音楽性を読み取ることができます。
・「第1年 スイス」
1835年から1836年にかけて、恋人マリーとスイスを訪れた際に、そこで触れたものから受けた印象でつくった曲を集めたもの。9曲の内、大半がスイスの自然や民謡と密接な関係のある曲です。中でも最も有名な「泉のほとりで」は、高度な技巧を用いながらも瑞々しい泉の情景が感じられる傑作です。
・「第2年 イタリア」「ヴェネツィアとナポリ(第2年補遺)」
同じくマリーと1837年から1839年にかけて滞在したイタリアでの印象を、譜におこしました。ダンテなどの文学作品や、ラファエロ、ミケランジェロの絵画など、リストがイタリアで触れた芸術作品の影響が色濃く反映されています。
・「第3年」
50歳を過ぎてから創作を始めた曲が、この「第3年」に集められました。出版は前作から20年以上の時を経ています。若かりし頃の華麗さは影を潜め、全7曲中3曲の宗教曲が収められています。美しく希望に溢れた旋律で水の流れを映し出した「エステ荘の噴水」は、ラヴェルやドビュッシーにも大きな影響を与えたと言われています。
その他の名曲
作曲家でもあるリストは数多くの名曲を生み出しました。彼の指針ともなったパガニーニのヴァイオリン曲「ラ・カンパネラ」をピアノ曲としてアレンジした曲や、波のように甘美なメロディが押し寄せる「愛の夢 第3番」などは、今でも多くのピアニストたちが好んで演奏しています。交響詩の代表作としては、「レ・プレリュード」が挙げられます。
そして、有名な「ハンガリー狂詩曲 第2番」は、放浪の人生を送りながらも祖国として誇りに思っていたハンガリーの民族的叙事詩を音楽化したもので、彼の強い愛国心が結実した曲とも言えます。彼は故郷に想いを馳せながら、最晩年までこの曲を演奏しました。
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─ パイオニアとしての顔
リストの偉大な功績のひとつに、標題音楽の中心的ジャンルである「交響詩」の確立があります。標題音楽が登場するまで、音楽は番号で記録され、タイトルや言葉で表される「テーマ」はありませんでした。リストは、曲にタイトルを付けてテーマ性を持たせることにより、音楽を或る種パッケージ化して作品を発表しました。
「巡礼の年」は、まさにこの形でつくられた作品集ですね。
リストが遺したもの
演奏家として、作曲家として世界に名を轟かせたリストの功績は、それだけにとどまりません。
演奏会といえば多くの演奏者が登場して行うのが当たり前だった当時の概念を覆し、一人だけの演奏会である「リサイタル」を世界で初めて行ったのが、28歳のリストでした。
また彼の音楽家としての情熱は、演奏、作曲だけでは終わらず、若い人たちへの教育にも向けられました。一説には千人を数えたとも言われる弟子たちに、彼はなんと無償で教授していたのです。
才能は世の中のために使うべきだという彼の思想は、更に視野を広げ、生まれ故郷ハンガリーにおける高等音楽教育の発展を目指します。「ハンガリー王立音楽院」の設立がそれでした。今では彼の功績をたたえ「リスト・フェレンツ音楽大学」(リスト音楽院)と改名したこの学校の設立を認可したのは、フランツ・ヨーゼフ一世でした。
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─ 一度習えば、あなたもリストの弟子に仲間入り!?
来る者は拒まず、時には無償でピアノを教えたというリスト。一度でも教えた人まで入れると、教え子は膨大な人数になるといわれています。それが後の「リスト音楽院」の礎となったのです。人生に葛藤を抱えながらつくり上げた“フランツ・リスト像”から開放され、“リスト・フェレンツ”の魂が人生の終盤でようやく見つけた答えは、「教育者」としてのリストの中にあったのかもしれません。
才能に溢れたピアニストであり、偉大な作曲家であり、教育者でもあったフランツ・リスト。そんなスーパースターの華やかな人生と懊悩を描いた花組公演『巡礼の年~リスト・フェレンツ、魂の彷徨~』に、どうぞご期待ください!